Vol.13 桐生 武士の勝ち運に乗った絹織物


富岡製糸場が世界遺産になった群馬県。

いまでこそ養蚕は見られませんが、

今でも絹織物は盛んです。

そして群馬で絹織物の産地といえば桐生。

織物の世界では、

「西の西陣、東の桐生」とも言われるそうです。


2017.4.23

織物とひもかわの関係が気になる

大竹一平




能からの絹織物


  桐生に行ってみようと思ったきっかけは、2月にお会いした能楽師の吉田さんの話でした。
  能楽師の数が減っているから、衣装や小道具の需要が減って、それを作る職人の数も減っている。なかには技法が途絶えてしまって、もう形にできないものもあると。
  なるほどねえ。能は舞台芸術だけに、衣装や小道具、音楽と、裾野が広いんだなあと。そして衣装といえば絹織物、絹織物といえば、関東なら桐生だな。

  というわけで、桐生です。

  西日本の人や、関東でも東京、千葉、神奈川あたりに住んでいると群馬と栃木がごっちゃになってる人、わりと多いみたいです。前橋と宇都宮は県庁所在地だと知ってるけど、どっちが群馬でどっちが栃木か分からないとか。もちろん、前橋が群馬ですよね。
  さらに前橋と宇都宮の関係は分かっていても、たとえば伊勢崎、桐生、太田、足利、小山、この位置関係を一発で言い当てられたら、かなりの群馬栃木通です。いまあげた5つのうち、足利と小山は栃木県だって分かりました?
  桐生は群馬の中では東寄り、前橋と宇都宮のほぼ中間にあります。

 

桐生の織物で作られた着物
桐生の織物で作られた着物

 

北千住から桐生へ、3時間の旅


  今回は日帰りの電車旅です。


  JRだと、桐生は高崎と小山を結ぶ両毛線が通っています。高崎も小山も東京から新幹線で1時間ほど、在来線ならざっくり2時間、そこから桐生へはどちらからも1時間ぐらい。意外と遠いな。

  または、北千住から桐生のすぐ近くの赤城という駅まで、東武スカイツリーラインの特急「りょうもう」が一本で結んでいるけど、そこで乗り換えてやっぱり3時間。ところで、この東武スカイツリーラインていうの恥ずかしいなあ。だってそもそもの名前は東武伊勢崎線ですよ。それならかつて通っていた高校がある加須を抜けて行く路線なので、馴染みはあります。伊勢崎線のどこが悪いんだろう。

  とはいえ加須から先には行ったことないし、東武線に乗ってみようかな。

  金曜日の朝7時半、いつも会社に行くより少し早い時間の電車に乗って練馬を出ます。池袋からラッシュ時の山手線で日暮里まで10分ちょい、そこで常磐線に乗り換えて今度は10分弱で北千住です。

  北千住の駅って狭い土地なのに、高さも使ってたくさんの人と路線をさばく工夫ぶりがすごいです。羽田空港もそうだけど、限られたスペースを効率よく使い切る工夫って、日本の十八番(おはこ)です。


  指定席のキップを買ってホームへ。今年の東京は桜の花が咲いてから気温の低い日が続き、この日も曇っていて肌寒い天気でした。こういう日は暖かい車内に入るとホッとしますね。
  新聞を読んだりお茶を飲んだり、さらにボーっとしたりウトウトしたりすると、群馬です。終点の1つ手前、相生という駅で乗り換え、わたらせ渓谷鉄道で終点の桐生まで2駅。1両編成のディーゼルカーですが、車両の色使いがレトロ調でなかなか渋い。

  なんだかんだで桐生についたのは11時前、頂きにまだ雪が残る山がすぐそこです。

相生駅。ここで東武線から茶色いわたらせ渓谷鉄道に乗り換えて桐生へ。レトロな車両が渋いですね
相生駅。ここで東武線から茶色いわたらせ渓谷鉄道に乗り換えて桐生へ。レトロな車両が渋いですね

 

桐生といえば「ひもかわ」


  この日行きたかったのは織物の博物館であり現役の工場でもある「桐生織物参考館 紫」。実は3月の頭に車で桐生を通りがかったことがあり、桐生織物記念館という施設に軽く寄った時、事務員さんに教えてもらったので、行ってみようかなと思っていたのでした。

  桐生駅についてトイレに寄って、構内にある市内の地図を確認します。

  すると、“駅そば”のスタンドが目に入ってしまいました。あー。あるんだ。正直、その時桐生駅に人はほとんどいませんでした。僕が乗ってきた「わたらせ渓谷鉄道」だって、下りたのはせいぜい5~6人。駅でそばを食べていく人なんて、そうそういないでしょう。週末に来る観光客か、部活帰りの高校生ぐらいか。営業してるのがエラいです。やっぱり、こういう駅に駅そばがあるだけで、ぐっと旅感が増すもんなあ。


  のぞいてみると「桐生名物 ひもかわ」の短冊。ひもかわうどんか。以前、同じく群馬の高崎の居酒屋で頼んだ気がする。確か太い麺、昔、小学生の頃に穿いていたパンツのゴムみたいに太い麺です。でも高崎の時は〆の一品的に、冷たいのがざるうどんのように上品に出てきたんでした。

  ひもかわ、駅のスタンドにあるんだ。
  じゃあ、食べてみようか。

  駅構内と外から、どちらからも入れる作りになっているスタンドに入ると、おやじさんが静かに「らっしゃい」と一言。威勢のいい声はもちろん愛想笑いも一切なし、昭和の哀しみをいまに引きずるような、ただ気だるいだけなような。どちらにしても、個人的には落ち着く空間です。


  頼んだのは、ひもかわうどんのかけ、かつお節の出汁を使った一番シンプルなやつです。おじさんがやはり昭和の哀愁のまま静かにカウンターに出したひもかわは、やはり平べったい。きしめんも平べったいですが、その比ではありません。麺の幅は店によっても違うのかもしれませんが、3センチはあるでしょうか?


  うどんと同じように七味をかけてすすってみるも、太くてすすれません。箸である程度束ねて食べるのが正しいのか?  それとも気合いを入れてすするのか?  どっちが正しいのか分かりませんが、食べてみると麺自体はスムーズで、口の中でゴワゴワとする感覚も一切なく、思ったよりも普通に食べられます。
  むしろ普通のうどんよりも、麺のもっちり感を楽しめていいかもしれない。


  いいじゃないか、ひもかわ。


ひもかわうどんって、知ってました?

 

古い建物が普通に残る街

  静かなスタンドで静かにひもかわを愉しんで、いよいよ街に出ます。桐生は古い街で、昔ながらの建物が残った「新町重要伝統的建造物群保存地区」という地区もあるそうです。漢字が続くだいぶ荘厳な感じの地区名ですね。少し遠回りになりますが、今回行こうと思っている桐生織物参考館 紫へは、駅からその新町重要伝統的建造物群保存地区を回って行けそうです。紫に着くまで、ゆっくり歩いて30分というところかな。


  しかし。静かな街です。
  やってきたのが金曜日、平日だったせいもあるでしょう。駅前の通りは商店街になっているのですが、歩いている人もほとんど見当たらず、店も開いていたり閉まっていたり。あちこちにつけられたスピーカーから小さくミニFMが流れていますが、それがまたなんというか。典型的な日本のくたびれた地方都市という感じです。昔は活気あったんだろうになあ。なんて思うとよけいに寂しい気持ちになってしまいます。

  駅からそんな商店街を5分ほどぶらぶらと歩いていくとと、「新町重要伝統的建造物群保存地区」という案内が見えました。案内通り左に曲がってすぐなのかなと思ったら、ここから15分ぐらいかかるようです。
  やがて遠目に新町重要伝統的建造物群保存地区が見えてきました。蔵のような建物もありそうです。歩いていくとカフェなのかな?石蔵の建物があって、「キリンビール」とペンキで描かれた看板が素敵な昔ながらの酒屋さんがあって、あれ?以上?か。 街並みとして続いている感じではないんですね。
  昔のまま住んでいる建物については残っている、でも立て替えた家も多いという感じです。



ここで飲むキリンビールは、より美味しいんだろうな
ここで飲むキリンビールは、より美味しいんだろうな

  んー。

  建物1つひとつには趣があるんですけどね。もちろん建物の移設となると大変なことだろうけど、これはちょっと惜しい気もするなあ。「新町重要伝統的建造物群保存地区」という名前から、勝手に倉敷の美観地区のようなイメージを抱いてしまっていたので。


  ただ、少し歩いていると、街並みと1つ1つの古い建物がわりと自然に溶け合っているように感じられてきました。無理して作ってない分でしょうか?  街の雰囲気として落ち着いています。最初に感じた感想とは逆に、観光地すぎてないのがいいのかな。住んでいる人にとっては、このぐらいのほうがワザとらしくなくて、住みやすいのかもしれません。んー、ただまあ、もう少し色気を出してもいい気もしますけど。


  

古い工場の佇まいが好きだ


  その一角を離れて、桐生織物参考館 紫までは10分ぐらい。
  通りから角を曲がって着いた時、ちょっとびっくりしました。


  保存地区にある石蔵のような昭和モダンではないけれど、建物に歴史と味わい深さを感じます。博物館兼とはいえ、長く使われてきた現役の工場だからでしょう。働く建物。なんかいいなあ、この雰囲気。


  正面左手にチケット売り場がありました。大人1人700円を支払うと、売り場のおばちゃんがここでもやはりもの静かな口調で、「案内をつけることもできるんですけど、どうしますか?」と。せっかくだからお願いしました。それにしても、駅のひもかわスタンドのオヤジさんといい、桐生の人はみんなもの静かに話すんだろうか。



  ガラガラという引き戸を開けて昔工場だったという建物に入ると、さすがに中は広い。そしていかにも歴史的な織機がたくさん置かれています。その時間帯は自分の他は誰もいませんでした。ガランとして、シーンと静かで、天窓を通して柔らかに陽光が入ってきます。なんかこういう空間、久しぶりだ。空気の粒子が見えるようです。


  しばし静かな空間と静かな光に身体と頭を馴染ませていると、奥にある扉がガラガラと開き、さっきのチケット売り場のおばちゃんが入ってきて小さく「お待たせしました」と。あ、あのおばちゃんが案内してくれるんだ。


  他にお客さんは誰もいないし、ゆっくり説明してもらいながら巡りました。


  その最初に「なるほど」と思ったのが、この建物の構造。外から見ると屋根がノコギリのような形になっているのは、そのギザギザ1つ1つに天窓があって、建物の中に天然光を採り入れる工夫だそうです。しかもその窓は北向き。


  「北向き?」、聞き間違えたかと思いました。敢えて北向きにすることで、1日の時間帯を問わず同じ光量で光が入って来る。さらには時間帯だけでなく天気も、たとえばこの日のような曇りの日も晴天の日も、北向きにすることで同じ光量が入って来るという工夫だと。なんでそこまで光量にこだわるのか?  それは品質管理、織物の色を見るため。たしかに、なんでも本来の色合いを判断するには、柔らかな陽光の下が一番と言われています。色の見え方って、思ったよりも光の加減で繊細に変わるもの。だから製品の色に気をつかう織物工場としては、光量を一定にすることで、常に同じ条件で色合いを見るわけです。


  いいなあ、こういう工夫。


広く静かな空間、北向の窓、古い機械
広く静かな空間、北向の窓、古い機械

 

関ヶ原あっての桐生


  いきなり感動していますが、おばちゃんの物静かな説明は本丸の織物へと進みます。織物と織機自体はギリシア時代からあったそうで、その織機を復元したものもありました。


  ただ、二度目に「へー!」と思ったのが、桐生が織物で有名になった理由でした。


  桐生ではすでに奈良時代から養蚕と絹織物が始まっており、朝廷にも献上した歴史があるそうです。ただ「西の西陣、東の桐生」と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってから。浅知恵極まりない自分はまったく知らなかったし、ここでは経緯を思いっきり省略しますが、1600年、あの関ヶ原の合戦の直前、いろいろあって家康率いる東軍は栃木の小山で会議をしたそうです(小山評定)。そこで東軍は「石田光成率いる西軍を討ったれ!」と一致団結し、一気に盛り上がったそうです。


  で、その盛り上がりのままに「戦うなら軍旗が必要だよね」ということになり、「旗作るなら桐生が近いじゃん」となって、東軍は急きょ桐生の職人たちに2400旗にもなる軍旗の製作を求めたそうです。しかも急ぎで。桐生の職人もびっくりしたでしょうね。今ならそんな客、一発でブラック扱いです。


  しかし桐生の職人たちはそのオーダーに完璧に応え、言い伝えでは絹でできた2400もの軍旗を、1日で納めたそうです。すごい。そして皆さんご存知の通り、桐生産の旗を掲げて戦った東軍は見事に勝利。桐生の旗は勝ち運がつくという評判になり、徳川家が江戸に幕府を開いた後も、桐生の絹織物は幕府に納められていたそうです。


  へー。西の西陣が宮廷なら、東の桐生は武家に愛されて育ったんですね。案内のおばちゃんも「あの東軍の会議が小山で開かれて良かったですよ。ふふふ」と、つい最近の出来事のように笑っていました。


左のはギリシャ時代に使われていた織機(レプリカ)

 

ザ・機械な魅力


  しかし織機って複雑な仕組みですよね。縦糸と横糸を交互に織り込んでいく。「鶴の恩返し」の機織りのイメージは高機(たかばた)と呼ばれる手織り機。展示されている高機を見ながら、「これで縦糸は何本ぐらいあるんですか?」と聞くと、おばちゃんは静かに「だいたい3200本です」と。なるほどと思ったのが、高機に縦糸をセッティングする職人が専門でいるそうです。そうだよなあ。このセットだけで1日はかかりそうです。


  高機とか、それを発展させた機械までなら、織られていく仕組みは分かります。出来る柄は無地だったり、チェック柄だったり。でも、ジャカード織りという、パンチカードを使って複雑な模様をつけるような織り方になると、説明を聞いて一応日本人的に「へー」と頷いてみるものの、正直よく分かりません。ただ、よく分からないけど織機はどれも見ていて複雑で、つくづく美しいです。惚れ惚れ。


 

明治の意気込みにほっこり


  相変わらず見学者は自分だけ、広くて静かな空間を独占したまま、1つ1つゆっくりと見て回ります。今、日本の主要産業といったらなんでしょうか? やはり自動車でしょうか。電機、ソフトウエアは海外のほうが勢いあるような気がします。でも日本の工業的産業で世界に最初に出て行ったのは、繊維です。そしてその中心として支えたのが、富岡製糸場しかし、この桐生の街しかり、群馬県一帯です。

  いくつか織機を見て回るだけでも、明治以降、織機がどんどん進化している様子が分かります。


  おもしろかったのが、明治初期に作られたもの。

  当時、西洋に追いつくために、最大市場のアメリカへ輸出する生地を作るため、幅2メートルはあろうかという巨大な織機を作ったそうです。目の前にするとほんとに大きいというより、でかい。アメリカ人のドレスだったり、カーテン向けの生地を作るために作られたそうです。「これで縦糸は何本なんですか?」とまた聞くと、「これで6000本ぐらいです」。

  あれ、大きさのわりに少ないんだ。するとおばちゃんは「生地を何に使うかで糸の密度が変わってくるので、大きさのわりには少ないですね。しかもこの織機で作られた生地は、アメリカでもやはり大きすぎて使い勝手が悪かったようで、この織機自体、数年使っただけでやめてしまったそうなんです。クフフ」と静かに笑いながら説明をしてくれました。

  まあたしかに、実物を見てもそらそうだろと言いたくなる代物ではありましたが、でもなんていうかその頃の意気込みが感じられて、ちょっと微笑ましい気持ちにもなります。


  そう、なにより明治以降の近代化ぶりに、当時の桐生と日本政府の本気を感じます。人力メインだったのが機械化され、自動化されていく。日本の産業が進化してきた道のりがまさにここにあります。

  そう考えると、桐生で行われてきた織物は江戸時代の260年とその後の100年で、その密度と求められる質が大きく変わっていることにあらためて気づかされました。



明治時代にアメリカへ輸出する生地用に作られた特製織機。でも短命だったそう

 

現役で稼働中の織機。この“機械感”が、ジブリの作品に出て来そう

 


  実は個人的に、繊維産業は工業化された産業というイメージもあって、伝統工芸とは少し違ったニュアンスに感じていた部分もありました。でもこうして見ていると、まず技をしっかり受け継ぐこと、そしてその技を、現代に使える最新技術を使ってより緻密に効率よく表現するように進化させること、そのためにたくさんの人が熱意を注ぎ支えているという面、そは紛れもなく伝統という豊かなバックボーンがあるからだよなと、感じました。


  そして、桐生市内には絹織物の作家さんもいらっしゃるそうです。
  織物は、そういう意味で不思議な産業だなと思いました。かたや工業として高度化され、多くの人の日常生活を支えている。でもその一方で、強い趣味性を持った世界も残っている。
  ならば、なんとか機会を作って、次はその作家さんに会ってみよう。
  絹織物の作家さんは、桐生の伝統を新しい技術とセンスにどうやって消化してるんだろう。


  あ、思えばひもかわって、あの幅広さは反物みたいだよな。